津田恒美という、すごい投手がいました。1980年代に広島東洋カープで、リリーフピッチャーとして活躍した選手です。
山口県立南陽工業高校のエースとして、1978年に春夏連続で甲子園に出場した津田投手は、1981年にドラフト1位で広島に入団。プロ1年目の1982年には先発投手として11勝を挙げ、新人王を獲得しました。2年目以降は、中指の血行障害に悩まされたものの、大手術の後、1986年にリリーフに転向し、22セーブを挙げ、見事復活しました。その年のカムバック賞も獲得しました。
そんな津田投手に、悲劇が襲いかかります。
1991年4月に、悪性の脳腫瘍が見つかったのです。2年3ヵ月の闘病生活ののち、1993年7月20日に、32歳という若さで亡くなってしまいました。
津田投手の投球スタイルは、打者に対して「剛速球で真っ向勝負」というものでした。
全盛期の津田投手は、本当にすごく、打者はストレートが来ると分かっていても打てませんでした。
当時、読売ジャイアンツの4番打者であった原辰徳選手(現監督)は、1986年9月24日に、津田投手と対戦しました。このとき、津田投手の剛速球をかろうじてファール・チップにした原選手の手首は砕かれてしまいました。それほど、力のあるボールだったのです。
リリーフとして津田投手がマウンドに上がると、「もう勝負は決まった」と思ったものです。たとえ広島ファンでなくても、津田投手のピッチングは、見ていて、とても気持のいいものでした。
この津田投手、実は元来気が弱く、高校時代には、監督から「精神安定剤だ」と嘘を言われ、メリケン粉を渡されたこともあったそうです。
プロに入ってからも、自分の精神的弱さを克服すべく、“弱気は最大の敵”と書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には、そのボールに向かって気合を入れていたそうです。
「剛速球の津田投手が」と思うと、びっくりします。
さて、高校受験が刻々と迫っています。今の時期の中学3年生は、焦り、不安になり、つい弱気になってしまいがちです。しかし、弱気になってはいけません。弱気になっても良いことは一つもありません。では、不安を拭い去るためには、どうしたらよいのでしょうか。
答えは、志望校合格を信じて努力することです。一生懸命に勉強することです。
そして、もう一つ。“弱気は最大の敵” という言葉を思い出し、自分に気合を入れて下さい。
学力は、入試直前まで伸びるのです。
『Step By Step 11月号 第130号』(2008年10月30日発行)より