第31回 アドレス帳

前回、昭和の終わりから平成になったばかりの風景を書いたので、今回もその頃のことを書こうと思う。

当時は、スマホは存在しなかった。
携帯電話はあるにはあったが、今の500mlのペットボトルよりももっと大きいサイズで、ほとんど普及していなかった。
みんな固定電話を使っていたのだ。
そして若者は、常に「アドレス帳」を持ち歩いていたのである。

アドレス帳は、今の小さな手帳、メモ帳くらいの大きさだった。
飲み会などで知り合ったりすると、お互いに、自分のアドレス帳に住所や電話番号を書いてもらったものだ。
気軽に書いたり、書いてもらったりしていた。
結局、アドレス帳に書いてもらっても、一度も電話をかけず、再会することなく、関係が終わる場合が多かった。
今の「名刺交換」くらいのノリだったのだと思う。


あれは私が大学二年生の時。
晩秋から初冬の頃、ちょうど今と同じ時期だった。
史学科(国史学専攻)の学生だった私は、国文科の友人Mと一緒の授業(国史概説)を受けた後、それぞれのアパートに帰るために一緒の電車に乗っていた。
車内に柔らかい日差しが入り込み、Mの顔を照らしていた。

二人で話をしていると、Mはカバンからアドレス帳を取り出してページを繰り始めた。
横に座っていた私に、自然とそのアドレス帳が目に入ってきた。
よく見ると、それぞれの名前の横に、AとかDとか、アルファベットが書いてあるではないか。
不思議に思った私はMに、「このAとかDって、何なの?」と訊ねた。
するとMは、少し気まずそうに「今の自分との関係」と笑った。

私は驚いた。そして、自分は一体何なのか気になった。
そこで、「俺は何?」と聞くと、Mは何のためらいもなく、私の名前が書いてあるページを見せてくれた。

そこには「B」と書かれていた。
一瞬の沈黙の後、私は「俺、Bかい?」と聞いた。
するとMは「まぁ、そんなところかな」と、にやけながら言った。
そして、二人で大笑いした。

Mは東京で就職し、数年間働いて故郷の福岡県に帰っていった。
その後、しばらくは年賀状のやり取りをしていたが、いつの間にかそれも途絶えてしまった。

Mは、今頃どうしているのだろうか?
三十年以上経った今でも、あの時のMの顔と車内の様子は今でもよく覚えている。

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