第32回 鮫島浩著『朝日新聞政治部』(講談社)

鮫島浩著『朝日新聞政治部』(講談社)を読む。

鮫島氏は朝日新聞の敏腕記者だった。
以下、著書略歴より。

(前略)2012年に調査報道に専従する特別報道部デスクとなり、翌年「手抜き除染」報道で新聞協会賞受賞。2014年に福島原発事故を巡る「吉田調書」報道で解任される。2021年に退社してウェブメディア「SAMEJIMA TIMES」を創刊し、連日記事を無料公開している。

本の帯には、「すべて実名で綴る内部告発ノンフィクション」と書かれている。
しかし、この本は決して下品な暴露本ではない。
本書を読んでいると、朝日新聞社という巨大メディアが、いかに官僚的な組織であるかがよく分かる。
朝日新聞が権力に取り込まれ、政権に忖度し、国民からの批判に萎縮し、腐敗してゆく姿が描かれている。
社内の権力闘争がお盛んである。
「新聞社がこれではダメだな」と思った。

もちろん、これは朝日新聞社だけのことではないだろう。
いわゆる全国紙、テレビではNHKや民放の各局(一部を除く)はどこも同じだろう。
なるほど、いわゆるマスメディアの切れ味が悪くなるはずである。
そして、ジャーナリズム精神の喪失、ネット社会への変化もあり、新聞の販売部数はどんどん減っている。テレビ離れも進んでいる。

この本には、全国紙朝刊販売部数の推移が書かれている。
1994年の朝日新聞の朝刊販売部数は822万3523部、2021年は466万3183部。

ちなみに、私が学生時代から30年以上購読し、今年の7月で購読を止めた毎日新聞は、1994年の朝刊販売部数は400万9317部、2021年は199万7076部。
毎日新聞もどんどんジャーナリズム精神を失ってゆき、ここ数年の報道は本当にひどかった。
毎日新聞の文化面は好きだったのだけれど、さすがに嫌気が差して7月いっぱいで購読を止めたのである。

現在、私は東京新聞と下野新聞を読んでいる。
大きな事件があったときは全国紙(朝日、毎日、読売、産経)にも目を通すようにしている。

鮫島氏は著書で言う。

インターネットの登場でオールドメディアは情報発信を独占できなくなり、メディアの多様化・細分化が進んだ。ITの力を借りれば、取材も執筆も編集も宣伝も制作も経営も一人でできる時代が到来したのだ。芸能人が芸能事務所を離れてユーチューバーになる時代である。巨大な分業体制の新聞社に競争力はない。一方で、たった一人の「小さなメディア」には勝機がある。

確かに鮫島氏の言う通りだと思う。
今では誰でも情報を発信できる。Twitterで話題になっている情報が、一週間遅れくらいでテレビでのワイドショーで放送されることも多い。
また、大手新聞やテレビのキー局では放送されないディープな情報をネットで収集できる時代なのだ。

ただし、私はオールドメディアである新聞が大好きだ。
やはり、新聞は電子版ではなく、これからも紙で読みたいと思っている。

『朝日新聞政治部』は非常に読み応えがある一冊だった。

第31回 アドレス帳

前回、昭和の終わりから平成になったばかりの風景を書いたので、今回もその頃のことを書こうと思う。

当時は、スマホは存在しなかった。
携帯電話はあるにはあったが、今の500mlのペットボトルよりももっと大きいサイズで、ほとんど普及していなかった。
みんな固定電話を使っていたのだ。
そして若者は、常に「アドレス帳」を持ち歩いていたのである。

アドレス帳は、今の小さな手帳、メモ帳くらいの大きさだった。
飲み会などで知り合ったりすると、お互いに、自分のアドレス帳に住所や電話番号を書いてもらったものだ。
気軽に書いたり、書いてもらったりしていた。
結局、アドレス帳に書いてもらっても、一度も電話をかけず、再会することなく、関係が終わる場合が多かった。
今の「名刺交換」くらいのノリだったのだと思う。


あれは私が大学二年生の時。
晩秋から初冬の頃、ちょうど今と同じ時期だった。
史学科(国史学専攻)の学生だった私は、国文科の友人Mと一緒の授業(国史概説)を受けた後、それぞれのアパートに帰るために一緒の電車に乗っていた。
車内に柔らかい日差しが入り込み、Mの顔を照らしていた。

二人で話をしていると、Mはカバンからアドレス帳を取り出してページを繰り始めた。
横に座っていた私に、自然とそのアドレス帳が目に入ってきた。
よく見ると、それぞれの名前の横に、AとかDとか、アルファベットが書いてあるではないか。
不思議に思った私はMに、「このAとかDって、何なの?」と訊ねた。
するとMは、少し気まずそうに「今の自分との関係」と笑った。

私は驚いた。そして、自分は一体何なのか気になった。
そこで、「俺は何?」と聞くと、Mは何のためらいもなく、私の名前が書いてあるページを見せてくれた。

そこには「B」と書かれていた。
一瞬の沈黙の後、私は「俺、Bかい?」と聞いた。
するとMは「まぁ、そんなところかな」と、にやけながら言った。
そして、二人で大笑いした。

Mは東京で就職し、数年間働いて故郷の福岡県に帰っていった。
その後、しばらくは年賀状のやり取りをしていたが、いつの間にかそれも途絶えてしまった。

Mは、今頃どうしているのだろうか?
三十年以上経った今でも、あの時のMの顔と車内の様子は今でもよく覚えている。

第30回 『現代用語の基礎知識』

昨日書店に行ったら『現代用語の基礎知識 2023』が平積みになっていた。
そういえば、そんな季節なのだなと思った。

学生時代からしばらくの間、毎年年末になると、『現代用語の基礎知識』、または同じような雑誌を買っていた。
類書としては、集英社の『イミダス』、朝日新聞社の『知恵蔵』があった。
どれも持ち帰り用に専用のビニール袋がついていた。

毎年11月なると、書店にはこの三種類が並んで平積みされる。その風景を見ると「もうすぐ一年が終わるのだな」と思ったものである。
昭和から平成になったばかりの頃だ。

当時、今年は「どれにしようかな」と悩みつつ、買ったものだ。
店先で悩むのも楽しかった。
実は、中身にそれほどの違いはない。
先発の『現代用語の基礎知識』がやや硬派な印象。『イミダス』が少し軟派、『知恵蔵』がその中間といった感じ(あくまでも、個人的な感想です)。

この3冊は、『広辞苑』くらいの分厚さがあって、これらが平積みされている風景は、なかなか圧巻であった。

これらの雑誌の存在はすっかり忘れていた。
ネットで調べてみたら、『イミダス』と『知恵蔵』は2006年11月で廃刊となったようだ。
今の時代、何でもネットで簡単に調べることができる。
『イミダス』と『知恵蔵』の廃刊は時代の流れなのだろう。

そのような中、『現代用語の基礎知識』はスマホが普及した令和になっても、まだがんばっている。これはなかなかすごいことだ。
ただし、ページは以前の半分以下になっている。

「昭和は遠くなりにけり」である。

第29回 「鑑真和上と下野薬師寺」展

10月某日。
栃木県立博物館の企画展「鑑真和上と下野薬師寺」に行ってきた。
一番の目的は「鑑真和上坐像」(御身代わり)にお会いしてくることだった。

鑑真さんは中学校の歴史の教科書にも登場する、とても有名なお坊さん。
日本人なら知らない人はいないと思う。
歴史の教科書には、「鑑真和上坐像」の写真とともに以下の説明がある。

鑑真 688~763
~日本からの依頼に命懸けで応えた僧侶~
唐の僧侶である鑑真は、弟子を日本に派遣しようとしましたが、当時日本への渡航は大変危険であったため、名乗り出る者が誰もおらず、みずからが日本へ渡航することを決意しました。たび重なる渡航の失敗によって失明しても、強い意志を持ち続け、およそ10年かけて、ようやくその願いをかなえました。日本に正式な戒律(修行のきまりごと)を授け、後に唐招提寺を開きました。
(唐招提寺蔵、奈良国立博物館提供)

『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)より。

国宝である本物の「鑑真和上像」は、唐招提寺で毎年6月5日~7日の3日間のみ公開されるそうだ。(6月6日が鑑真さんの命日)
そのかわり、平成25年に御身代わり像(身影像)が制作され、こちらは毎日参拝できる。

昔々、高校時代の修学旅行で唐招提寺には行ったが、確かこのときは鑑真和上像には参拝できなかったはず。
そのため、今回が鑑真さんに初めてお目にかかったことになる。
御身代わり像とはいえ、鑑真さんは美しいお姿であった。

「鑑真和上坐像」(御身代わり)以外にも、興味を引く古文書、木簡、仏像などがあり、楽しい一時を過ごすことができた。
読もう、読もうと思って未だに読んでいない、井上靖さんの『天平の甍』(1957年)を今度こそ読もうと思った次第である。

※『天平の甍』……遣唐使(第9次)で大陸に渡った留学僧たち。高僧を招くという使命を受け、後に鑒眞(鑑真)と会う普照と栄叡を軸とした若い留学僧たちの運命を描く。

Wikipediaより

第28回  映画「大河への道」

今年5月に公開された、歴史エンターテイメント映画「大河への道」をDVDで見た。

千葉県香取市の市役所職員の池本(中井貴一)が、ひょんなことから大河ドラマ作りに関わることになってしまうというストーリー。
池本が企画した大河ドラマの主人公は、地元の偉人「伊能忠敬」。

舞台は現代(令和)と江戸。
役者さんたちは、現代と江戸の登場人物で一人二役を演じている。

主演は中井貴一さん。
この役者さんは、とぼけた中年を演じさせると最高におもしろい。もちろんシリアスな役もこなせる実力派俳優である。
映画の中では、市役所職員の池本(現代)と江戸時代後期の天文学者・高橋景保(江戸)の二役を演じている。

御存知の通り、伊能忠敬は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量し、「大日本沿海輿地図」を完成した人物。

忠敬は、50歳で商売(酒造業)を息子に譲り、江戸に出て自分よりも19歳年下の天文学者・高橋至時(高橋景保の父)に弟子入りして、測地や暦法を学ぶ。
そして、量程車という距離を測る道具を使い、実際に全国の沿岸を歩いて測量したのだ。
向学心旺盛で、エネルギッシュな人である。

この映画、もともとは噺家の立川志の輔師匠の新作落語だった。
笑いあり、涙あり、そして原作が落語だけに最後に「落ち」がある。

私も一緒に見た妻も、この映画の評価は「☆4つ」(5個中)である。 是非、いつか志の輔師匠の新作落語「大河の道」も聴いてみたいものだ。

第27回  作家・島田雅彦さんのこと

島田雅彦さんの私小説『君が異端だった頃』(集英社文庫)を読んだ。

少年時代から30歳くらい、「青春の終焉」までをすべてさらけ出している。
おもしろかった。ぐいぐい引き込まれた。
しかし、読み終えてどっと疲れた。

すべて読み終えた感想を一言で言うと、「作家はすごい」というものだ。
自身の不倫、そして妻とのごたごたまで書いている。
これが作家魂というものなのだろう。

島田雅彦さんは、大学在学中の1983年に文芸誌「海燕」デビューし、その後6回芥川賞候補になるも、すべて落選。落選最高記録をお持ちである。

私は学生時代に、島田さんのこの6作品すべてを読んだ。その他、初期の作品はだいたい読んだと思う。
文芸誌「海燕」は「福武書店」(現在のベネッセコーポレーション)が発行していた。
「海燕」は1996年11月号を最後にして廃刊された。

二十年くらい前、持っていた島田さんの本のほとんどをブックオフに売ってしまった。
正直、後悔している。

島田さんの初期作品をネットで探したところ、河出文庫から『島田雅彦 芥川賞落選集』が上・下巻が出ていた。さっそく注文した。
さらに、現在たいへん話題になっている島田さんの政治小説『パンとサーカス』(講談社)も同時に注文した。

『パンとサーカス』はハードカバーで557ページの大作だ。
これからこの作品をじっくりと読むつもり。
しばらくは「島田雅彦ワールド」の住民になりそうだ。

島田さんは次男が通う大学の教授(国際文化学部)である。
次男は法学部に所属しているが、在学時に島田さんの授業を履修するように伝えてある。
「教授・島田雅彦」の話を聞けるのを今から楽しみにしている。

第26回 プロ野球ドラフト会議が楽しみ

今年のプロ野球ドラフト会議は10月20日(木)だ。

今年のプロ野球ドラフト会議は10月20日(木)だ。
気のせいか、ドラフト会議は毎年木曜日にあるような気がする。

自分の人生とはまったく関係ないのに、なぜわくわくするのだろう。
新たなヒーローの誕生、そこに立ち会える喜び、そんな理由からだろうか。

今年は栃木で国体が開催されており、高校野球(硬式)の試合が宇都宮清原球場で行われた。
甲子園常連校の試合を地元で観戦できる、こんなチャンスはめったにない。
そう思い、私は10月3日(月)と5日(水)のチケットを手に入れた。
結局、3日の試合だけ観戦した。
5日は悪天候のため、行くのをとりやめたのだ。

3日の試合は、「国学院栃木―聖光学院」と「下関国際―大阪桐蔭」の二試合だった。
高校生とは思えないほどのすばらしいプレーが眼の前で繰り広げられた。これは一生の宝である。
この選手たちの中から何人かが今年のドラフト会議で指名されるのだ。
そう思うと、とてもわくわくする。

プロ野球のスカウトたちをテーマにしたマンガがある。
クロマツテツロウさんの『DRAFT KING』(集英社)だ。

このマンガは、スカウトたちのプロの仕事ぶりを知ることができて興味深い。
そして、野球に対しての愛を感じる。
ユーモアもあり、絵もきれいでとても読みやすい野球マンガだ。
クロマツさんの『野球部に花束を』(秋田書店)も名作である。

『DRAFT KING』、第1巻は2019年8月に発行された。
今から3年ほど前だ。
私は、その時に第1巻を買って読み、新刊が発売されるたびに読み進めてきた。
5巻まで読んだのだが、その後、その存在をすっかり忘れていた。


しかし先日、書店でたまたま12巻を見つけた。
気づかないうちに、話は12巻まで進んでいたようだ。 今、第1巻から読み返している。
是非、今年のドラフト会議の日までに12巻まで読み進めたいと思っている。

第25回  義父のお葬式

9月26日に、末期がんのため義父が亡くなった。享年87歳だった。

ここ数年、入退院を繰り返していた。
義父が亡くなる10日ほど前に、私は妻や子供たちと共に退院して一時帰宅していた義父を見舞いに行った。
そして、その日が義父と話した最後の日となってしまった。

義父はベッドに横たわり、すっかりと痩せ細ってしまっていたが、一生懸命に話そうとしてくれた。
かすれ声であったが、いつものユーモアある発言に、つい何度も笑ってしまった。
義父は、最後まで明るく、前向きに生きようとしていた。

29日に告別式があったが、とても温かいものだった。
葬儀委員長のあいさつも、喪主の義兄のあいさつもどちらも心がこもっていて、つい涙ぐんでしまった。
義父が周りから愛されていたことが伝わってきた。

祭壇に飾られた遺影は、2年ほど前に長男が撮影したものだ。
私の長男は、高校、大学、大学院時代の9年間写真部だった。
義父は、病状が悪化する前に、孫である長男に遺影の撮影をお願いしていたのだ。

故人を偲ぶメモリアルコーナーには、義父の子供時代の一族の集合写真(義父は紺絣を着ていた)、若かった頃、働き盛りの頃、炬燵にあたりながら孫(私にとっての姪)を抱いている写真などがあった。


「百姓」ということに誇りを持ち、義母と二人で菊作りに精を出し、4人の子供を育てあげた義父。
その義父が、義母と二人で菊畑で働いている写真を見ると、つい涙が出てきてしまった。

私は、義父と政治の話をするのが楽しかった。
もう話す機会がないと思うと、とても寂しい。

告別式当日は、浅間山をはじめとした高い山々の上空に鱗雲が広がっていた。
そして、どこかから金木犀の香りが漂ってきた。
そんな秋らしい日に、義父は天国へ旅立ったのである。
                                      合掌

第24回 鈴木忠平著『虚空の人』(文藝春秋)

鈴木忠平著『虚空の人 ~清原和博を巡る旅』(文藝春秋)を読んだ。
これは、元プロ野球選手であった清原和博を4年間にわたって取材し書かれた本である。

私は今年の1月に、鈴木さんの前著『嫌われた監督 ~落合博満は中日をどう変えたか~』(文藝春秋)をたいへん興味深く読んでいたので、今回も楽しみにページを繰った。

高校野球のヒーロー、プロ野球でも活躍した清原和博は、現役時代から素行の悪さでも有名であった。
引退後、タレントとして活動していたが、素行の悪さはエスカレートし、ついに、覚醒剤に手を出してしまう。
そして、2016年に逮捕された。
この本は、逮捕後の2017年初夏から約4年間にわたっての記録である。

清原本人だけでなく、彼に関わった人々を取材することで、人間・清原和博がくっきりと浮かび上がってくる。
裏表のない明るさ、無邪気さ、繊細さ、未熟さを持った人間。
良く言えば「ピュア」、悪くいえば「精神的に未熟」ということだろう。

「KKコンビ」の桑田真澄との関係、桑田への複雑な思い、そしてドラフトの裏側なども書かれていてたいへん興味深かった。

2020年6月に、清原和博の執行猶予期間は満了した。
しかし、今も日々、心身の闘いは続いているという。

『虚空の人』は期待を裏切らない作品であった。


※読みやすさを考慮して、本文中、清原和博と桑田真澄両氏の敬称を略した。

第23回 歴史学者・清水克行さんのコラム

統一教会と自民党、統一教会と安倍晋三元首相の深い関係が明るみになってから、「週刊文春」を買って読むことが増えた。
雑誌なので、注目の記事以外もぱらぱらとページをめくって読む。
その中に、とても興味深い連載コラムがあった。

歴史学者・清水克行さん(明治大学商学部教授・日本中世史)の「室町ワンダーランド」だ。
私が読んだ数回分のコラムでは、清水さん自身のこれまで、歴史に興味を持った子供時代、大学時代などのことが書かれていた。

私自身、大学時代は文学部史学科に所属していて、清水さんと同じ時期に学生時代を過ごしていたので、清水さんのコラムはとても懐かしい感じがする。

9月1日号、第17回の「室町ワンダーランド」は、『先生との出会い』というタイトルで、清水さんとその師である藤木久志さんのことが書かれていた。
とても心温まる文章であったが、その中に、以下の一文があった。

歴史学界では、研究者の名前を呼ぶとき、「~先生」とは呼ばずに、どんな偉い先生であっても必ず公の場では「~さん」と呼ぶ習慣がある。

そして、清水さんは、「研究者は互いに対等」という考えに基づいてそのような習慣になったと書いている。

確かに、史学科に所属する学生や大学院生は、研究者の名前を呼ぶとき「~さん」と言っていた。
先輩方がそう呼んでいるから、私もなんの疑問も持たずに同じようにしていたが、そのような深い理由があったとは。
大学を卒業して30年くらい経つが、この理由を知ってちょっと感動してしまった。

ちなみに、農学部出身の妻に聞いたところ、歴史学界のような習慣はないそうである。